インタビュー

創業328年! 大五郎建設有限会社 9代目棟梁 石井正明社長

2020.6.17

今回は1692年創業、千葉県南房総市千倉町にある工務店、大五郎建設有限会社 9代目棟梁 石井正明社長にお話を伺う事が出来ました。

大五郎建設 第2工場

塚原ー 私にとって大五郎建設さんの一番の関心は創業から300年以上も続いているところです。大手ゼネコンでも200年未満の会社がある中で並大抵の事では実現できない。これだけ長く会社が続く秘訣に迫りたいなと。まず、石井さんが知っている中で一番昔の話を教えてください

石井ー 大五郎建設は今まで、様々な事を乗り越えてきました。関東大震災後、田舎の土地を売って東京で再起しました。当時、私の祖父は都会で何十人もの大工を従えた棟梁でした。とても几帳面で、朝は拭き掃除は勿論の事、朝夕、庭を馬鍬(マンガ)と呼ばれる熊手で綺麗に枯山水の砂紋を作っていました。

そこから太平洋戦争に突入、東京は空襲に遭い何もなくなってしまった。強制疎開で田舎に戻った時には一文無しで、そこからまた這い上がって今に至ります。

祖父はとても口うるさい人でしたが、祖父や祖母と深く関わる事で、私達の世代は日本の文化を知る事ができました。

塚原ー それは強い意志を感じますね。そのころの人達の精神的な強さは凄いですね。次に石井さんのお父さんはどのような方でしたか?

石井ー 父は娘婿でした。口うるさい祖父に細かく指導されることに疲れてしまったのでしょう。やがて家を出て行ってしまいました。ですので、その後うちは貧乏になってしまったんです。

上棟式に掲げる鶴と亀

塚原ー 300年継続してきたと言葉で言うのは簡単ですが、その中には沢山の人間模様も詰まっているのですね。それでは、ここからが石井さんについてお尋ねします。石井さんは幼い頃、大工さん以外に何かやってみたい職業などはありましたか?

石井ー 幼い頃から家族の会話はいつも建築の話でした、子供は親の背中を見て育つもの。他の職業の事もあまり知らなかったし、継がなければいけないとかそういった責任感みたいなものではなく、ごく自然に大工の道を選んでいました。

塚原ー そうなんですね。それでは石井さんが大工さんになり始めた頃のお話を聞かせてください

石井ー 私は中学校卒業後、年季に入りました。年季に入るというのは修行に行くという事です。当時は15歳になると仲人さんが赤い褌を持ってきて、親戚中が集まり祝ってくれました。それが成人の儀式だったんです。

そんな儀式を終え、成人になった私は、鋸南町の工務店に住み込みで働くようになります。蛸部屋に同時期に修行にきていた仲間8人と共同生活をする事になりました。そこでは、先輩の言う事は絶対です。喉が渇いたと言ったらすぐに飲み物を買いに行き、風呂が入りたいと言えば、薪を燃やして風呂の支度をしました。

山から切り出した地域材のストック

塚原ー やはり若い頃には自分の工務店ですぐに働くという具合にはならないのですね。別の工務店で修行をされる利点は何でしょうか?

石井ー それはやっぱり、他の工務店のやり方を学ぶためです。自分の所だけではどうしたって、会社は発展していかない。若い人は他のところがどのような技術を持っているのか、見て盗んでくる役目もありました。

塚原ー 鋸南町の工務店とは、どのような経緯で知り合ったのですか?

石井ー 材木屋の紹介です。当時は景気がよく働き手は取り合いで、私たちは金の卵と呼ばれていました。そこで、材木屋は工務店に材木を買って欲しいのでお土産を持っていくんです。それが、私たちのような働き手です。

昔は商売と義理が絡んでいた。今の人たちはあまり我慢せずに自由にやってしまう人が増えたが、昔は人の義理で持っている所があったので、繋がりのある人に迷惑はかけられない、だから我慢するんです。

塚原ー そうですね、自由は人の不自由の上に成り立ちますからね。その主張が強いと今も昔も同じで自ずと弾き出されてしまう。サラリーマンでも政治家でも若いうちは自分の意に反して汗をかかないと人から認めてもらえず結局、上には上がれない。我慢する事を学ぶ機会も必要なんですよね。その修行はどのくらい続けていたのですか?

石井ー 修行期間は6年間。21歳で一人前の大工として認めてもらえました。そこから今度は恩返しです。御礼奉公として2年間、その工務店の戦力として働きます。またその期間に若い見習いが入ってきたら、今度は自分たちが教育係となって若手育成をするんです。

内装の材木に施す意匠の型、これを材に写して加工します。

塚原ー ずいぶん長い期間、その工務店に勤められていたのですね。仕事以外の思い出などはありますか?

石井ー 1970年に大阪万博へ行きました。会社が大型バスをチャーターし、職人総勢50人くらいで旅行ができました。当時は高度成長期でお金も仕事も潤っていたので、こんな大掛かりな社員旅行もできたんですね。

塚原ー それは楽しそうな時代ですね。聴いているだけでもワクワクしますね。そんな御礼奉公を終え8年過ごした鋸南町の修行先から大五郎建設に戻ってきてからはどのような事をされたんですか?

石井ー 当時昭和46年に建設業法の改正があり、今まで登録制だったものが現在の許可制へと移行しました、いわゆる建設業許可です。国交省は建設工事の需要が高まる中、粗雑工事が増えていく現状を抑えようと、厳しく改正したんです。

この建設業許可を所得するには建築士の資格が必要でした。またこれから私が社会に出て大人達と対等に接するためにはどうすれば良いかを考えました。社会には多くの大卒者がいる中で私は中卒。しかし有資格者になれば20代でも80代でも対等になります。その2つの理由で、2級建築士になる事を決意しました。

古民家の解体から集めた昔の建具

塚原ー 折角8年の修行期間が終わってちょっとはのんびり出来るのに、また新たな目標に向かったんですね。でも建築士を取るには学校に通って勉強しないと難しいですよね?

石井ー そうです、ですので2年間、週末は東京の親戚の家に泊まらせてもらって、初台にあった資格学校に通いました。そして25歳の時に晴れて2級建築士になることが出来ました。

塚原ー 中学卒業から1人前になるまでの10年間は、とても密な時間だったんですね。その期間で今の石井さんのカタチが出来た。今の大五郎建設があるのも、そのおかげなんですね。それでは、ここからは石井さんが1人前の大工としてスタートを切った当初のお話を聞かせてください。初めて手掛けた仕事はどのようなものだったのでしょうか?

石井ー 初めは不動産屋と組んで建売住宅を作りました。当時は住宅需要が高かったんで、勢いに乗ってどんどん建てて行きました。

東屋の組み立てを学生に披露(千葉職業能力開発短期大学校)

塚原ー そうなんですね。それは羨ましい時代ですね、今まで磨いてきた技術の腕試しを出来る機会がゴロゴロしてるんですものね。ただ、それだと今まで身に付けた知識の消費だけになってしまいませんか?

石井ー そんな仕事を5年くらい続けました。そして結婚。これを機に自分の中で気持ちの変化が起きました。金儲けのために働くのではなく20年後、30年後に子供達にこの会社を継承できるような理念を持った会社にしようと。ですので、それからは自分のやりたい仕事に専念するようになったんです。

塚原ー それが、手刻みによる伝統構法なのですね。今日は色々な話をしてくださり、とても勉強になりました。大五郎建設さんの長い歴史のそれぞれのシーンで様々な事が起こりそれを乗り越え、また石井さん自体も環境や考え方の変遷があり、そんな様々な変化があっても根本は変わらない。きっと祖父の厳しい姿から日本文化や大五郎建設さんの理念がきちんと伝わっているのでしょうね。石井さんの息子さん達も既に立派な大工さんですし、お孫さんも石井さんの背中を見て、大工としての生き方を学ばれていますよね。本日は貴重なお話、ありがとうございました。

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studio ai architects 塚原 信行